ひとの幸せ |
世の中には、どんなに望んでも、叶わない、或いはまだ叶っていない事があります。
自分の力で何とかなる事なら兎も角、どうにもならない事も多い。
そして目の前には、自分が手にしていない幸せを持っている人達もいます。
しかも、それに値する努力をしていないように見えたり、恵まれた幸せに気付いていないような人もいて、何とも不公平に思える事もあるでしょう。
病気の人の前に、健康な人がいる。
親を亡くした人の前に、親が長生きしている人がいる。
結婚したくても縁がない人の前に、幸せな夫婦がいる。
子どもが欲しくても授からない人の前に、子宝に恵まれている人がいる。
望む道に進めない人の前に、希望通りの道に進んでいる人がいる。
それが現実です。
「友人の結婚(/妊娠/出産・・・)のお知らせを見るのがつらい」というのは、よく聞きます。
でも、そればかりではありません。
海外に憧れている人は、海外生活の様子を見ると溜め息が出るかも知れないし、
逆に日本への望郷の想いに襲われている人は、日本の様子に涙がこぼれるかも知れない。
職がない人にとっては、「毎日の残業で体を壊しそう」という事すら羨ましい。
他人から見たら大なり小なりの望みであれ、
本人にとっては真剣に喉から手が出るほど欲しいものというのはあるもので、
普通それぞれ誰もが、他の誰かの持っていない何かを持っている。
仮にそれをAと呼びましょう。
誰かが持っていないAを、自分が持っている。それは事実。
それを隠して見せない事は、果たして思いやりなのだろうか。
確かに見せびらかすのはよくない。
また、「Aなんて要らなかったのに」「Aのある生活は大変。それのないあなたが羨ましいわ」などと言うのも、考えものでしょう。
でも、親しい間柄であればあるほど。
または、相手の事を高く評価していればいるほど。
その事実を隠して、相手の目に触れないようにするというのは、
それだけ距離を置く事でもあり、
また相手の事を見くびっているという表現にもつながると、私自身は思います。
例えば私は友人知人達に年に一度、その一年間を振り返った御報告を送っています。
不特定多数の人が相手のブログや、義理で送る年賀状とは違って、
私が好んで個人的にやりとりをするような間柄ですから、
嬉しかった事も苦しかった事も、少し踏み込んでお知らせする事にしています。
全体が余りにも暗い内容にならないように、
なるべく、苦しかった事はさらりと書き、楽しかった事を多く選ぶように心しています。
そうすると、ぱっと見てバラ色の人生だと誤解される恐れも出てくるのですが、
中にはその「さらり」や笑顔の曇りに気付いてくれる人もいるから、それでいい。
ただ、私が持つAを持たない友人知人達の事は常に念頭にあり、
また私が知らなくとも、この歳になると各々が深刻な問題を抱えている事も多くなるので、
そもそもどういう表現をするか、
そして私が問題を知っている人達には、一人一人に出すかどうか、
日にちを掛けて随分悩みます。
「何がよくて、何がいけない」という基準は人それぞれですから、
飽くまでも私個人の考えで、線を引く事になります。
そして私の線引きは、世間一般のそれより踏み込んでいます。
私にとって大事だった事を隠しては、自分の気持ちに嘘をつくような気分になってしまうもの。
そして。
相手が幸運に恵まれ、自分が不運に襲われた年もあれば、
その逆の年もあるでしょう。
例えば私が苦しかった年なら、それでも前進している姿を見せる事で相手も勇気付けたいと、
逆に私に幸運が授かった年なら、それで相手の人生にも希望を与えて欲しいと、
たとえ相手のこの一年が不幸でも、次の一年には幸せを手にして欲しいと、
山も谷もあって逆転を繰り返すのが人生だと、
Aがなくても、その人が持っているBもCもDもあるのが人生だと、
そんな気持ちを伝えたい人にだけ、そしてそれを解ってくれるだろうと見込んだ人にだけ、
「それにも拘らず、敢えて」出す事にしています。
場合によっては、見て心が痛む事もあるかも知れないけれど、
それは私にとって、形式だけの「気遣い」よりも深い思いであり、
その人を大切に思い、信頼し高く買っているという表現でもあります。
少なくとも、「この人には目隠しする事は失礼だ」と感ずる事が、私にはあります。
勿論それは私の独りよがりですから、世の中には「あなたのそんな思いなど要らない」という人も、「そんなのは受け入れられない」「思いは別の形で表わすべきだ」という人もいるでしょう。
ひとの価値観はそれぞれですから、私の考えの方が正しいのだと主張する気など毛頭ありません。
議論好きなドイツ人に囲まれて暮らしていると、「ひとの考えがそれぞれ違うのは当たり前」「考えや主義が違っても、それと友達付き合いとはまた別」という考え方になってきます。ただ、日本人の多くには「考えが一致しないと友達付き合いは成り立たない」という部分があるので、少し難しくなります。
でも、波風を決して立たせる恐れがない道を選び、その分当たり障りなく形だけで中身のなくなってしまったお付き合いでは、私にとってはもう続ける意味がない。
たとえ誤解されて不興を買って「お付き合い」が消えていく事があったとしても、
いつか、私が「この人になら」と思った、その真意だけは伝わるといいなと思います。
週末の三日間は、頑張って疼痛治療の研修に出掛けてきました。
追記:
皆様、コメント有難うございました。
今回は御自分の経験や意見を述べて下さったものが多く、
「唯一絶対の正解」というもののない事ですから、
私が今更そこにお返事を付け加えるのも蛇足ですし、
普段のHNを伏せてのコメントも複数あるようで、
中には私が気付いた分だけで既に四つ目のHNの方もおられ、
流石にお返事を書きにくい部分もあるため、
不本意ながら、今回は全員お返事なしという事で御了承下さいませ。
御心配下さった方、はじめましての方、
心のこもったコメントをくださった方、
この場にて失礼ですが、本当に有難うございました。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
更なる追記:
「お返事なし」のところに更にコメントが入るのは、
私としては申し訳なく心苦しいので、
コメント欄そのものを非表示にしました。
どうぞ御了承下さいませ。